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abroad>タイ>戸川武さんのコラム
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戸川武さん(社学)は、バンコクのNGO事務所でボランティアをするために2年生の夏休みを利用して3週間程タイへ行ってきました。
戸川武さんより
この春、僕は2月下旬から3月中旬までの三週間の間、タイに行っていた。かねてからの希望がかなった。主たる目的は2つあって、僕がかねてからボランティアしている日本のNGO(SVAという団体)のバンコク事務所でのお手伝いと、北タイで活動しているNGOのスタディーツアーである。(といっても、実際は何せはじめて来た国だし、観光に毛が生えたようなもの。)宿は、SVA事務所の中のゲストハウス(布団のみの部屋)に泊まらせてもらった。実際、観光名所と言われるところにはほとんど行く時間が無く、お金も三週間で現地で使ったお金は2万5千円。少ないコストで、充実した生活がおくれた。ここでは印象に残ったいくつかのことを書きたい。 |
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笑顔
SVAが支援をしているバンコク市内のスラムの中にある保育園に一日お手伝いをさせてもらう機会があった。このスラムは750家屋、8000人の人たちが住んでいる。土地は国王のもので、住民は出で行けと言われるのを恐れながら暮らしている。80%以上の人々が東北タイ出身である。みな、仕事を求めて大都市バンコクにやって来たが、実際期待するほどの仕事は無く、失業した者たちが集まってスラムを形成しているのだ。多くの人が日雇いでその日暮らしをしている。こうしたスラムはバンコクに大小あわせて1500箇所存在する。
朝からバイクタクシーに乗り、15分くらい離れたスラム街の前に着いた。恐る恐るスラム街の暗くて細い路地を抜け(住民の妙な視線を感じながらも)、ようやく目的地にたどり着いた。思ったよりもきれいで新しい施設だ。(実はこの保育園、開園して3、4年なのだが、開園式には故小渕敬三さんが訪れたところ。)
さっそく何だかわけのわからないまま、園長先生(ワンナーさん)の出してくれたお粥みたいなものを存分に食べた。そうそう、食事に関して覚えたタイ語は、「アロイ マー(すごくおいしい)」と、「イム(もう十分、満腹)」。タイ人はご飯をどんどん食べさせようとするので、腹が5分くらいで、「イム、イム」ってアピールしなきゃいけないみたいだ。僕が朝食を食べている間、子供達がどんどん登校してきていた。朝の全校朝礼が始まった。僕が受け持つことになった年長さんのクラスの子供達といっしょにタイの慣れない体操をしたり、歌ったりした。突然、ワンナーさんが俺の紹介を始めた。て言っても、何て紹介されたのかタイ語なので何もわからない。ただ、「コン ジープン(日本人)」という単語で自分のことを紹介しているのだと気付いた。結局、全校生徒(200人弱)を前にして自己紹介することになり、タイ語で自己紹介なんてした事も無かったが、無事にこなせた(!?)らしい。更になぜか、日本の歌♪大きな栗の木の下♪をみなの前で、ふりつきで熱唱。やや恥ずかしかった。
子供達は「チャーン、チャーン」と僕のことを呼んでくれる。ちなみに「チャーン」とは象のこと。(実はタイビールの有名な銘柄のことで、ワンナーさんとお酒を飲んだ時に勝手に決められたあだ名。)本当にどの子もなついてくれて、遊び時間になると動けなくなるほど僕の体にしがみついてくる。中でも忘れられないのは、2人組みを作って踊りをするときのことだ。担任の先生が「チャーンと一緒にやりたい子はいるか??」と聞いた瞬間、30人くらいの子供達がいっせいに手を上げてくれた。僕もそれにはビックリしたが、担任の先生も困ったねって顔をしていた。お昼寝の時間もみんなと一緒に寝てました…。(布団から体半分以上ででたけど。)一日を保育園で過ごすことにより、スラムの子供達も日本の子供達と何ら変わらないと知ることができた。みんなが元気に遊んでいる姿や、子供達の満面の笑みを見ていると、スラムの子供であることを忘れてしまう。でも、一歩この保育園を出れば、そこには生きる気力を無くしたかのように一日中寝転んでいる人達がたくさんいる。聞くところによると、子供達は成長するにあたって自分達の住んでいる世界と周りの世界とのギャップに気付き、麻薬に走ったり、生きる気力を無くしたりするようだ。「僕の目の前で、満面の笑顔でいる子供達もいつかそうなってしまうのか。」そう思うと、すごく切なくなった。ずうずうしい言い方になるかもしれないが、子供達の笑顔を守りたい、そう思った。

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初めての世界、気づかされた世界
この三週間の感想を一言にまとめるのならば、「考えさせられた」ということだろう。日々、考えさせられる問題ばかりだった。多くのNGOを見て回ったが、そこでのNGOスタッフの言葉や、自分の目で見た世界、その多くが自分の知らない世界であったり、自分の見過ごしていた世界だった。
タイとミャンマーの国境にメーサイという街がある。国境の街だということもあり、この街には、より高い賃金を求めてミャンマーからタイ側に流入して来た人が多くいる。中には売春目的で来る人もいる。そのメーサイのストリートチルドレンに対する支援を行っているNGOを訪れた際のことである。そこでは、多くの子供達がミャンマーから来た子供で、さらには少数民族出身であるため、その施設に来た当初は、タイ語が話せない子が多いと聞く。そういった観点からなのか、ここのNGOは珍しいやり方で、子供と対話している。それは、絵を子供に書かせることによって子供の心理状態を確かめるというアートセラピーである。確かに、絵には子供の見えない部分や、人に言えない心の傷が見え隠れする。そのアートセラピーに関して、そこのスタッフの人が、「幼い女の子が毎日のようにリアルな女性器を描く」と話してくれた。もちろん正確なことはわからないが、その女の子の過去には性的虐待を受けていたり、何らかの形で心に傷を受けてしまったのだろう。ほんの6、7歳の少女である。余りの悲惨さに、僕はその現実を今でも受け止めきれていない。
また、そのNGOからの帰り道、トラックの荷台に乗って泊まる宿まで移動していた時の話をしたい。その荷台には僕ら日本人以外一人の女の子が乗っていた。その女の子はミャンマーからタイに来た子で国籍をもっていない。その道中に警察の検問にあった。警察はミャンマーの方からタイの都市部に人が流入しないようにチェックをしていたのだろう。「私達は日本人だ」と伝え、パスポートを見せた。すると快く道を通してくれた。その間、国籍を持たない彼女は荷台のはじで小さくなって目立たないようにしていた。その為、彼女は日本人の一人と見られたのか、パスポートのチェックもされずにすんだのだ。その光景を見たとき、彼女が国籍を取得しない限り、堂々と生きていくとはできないだろうと思った。彼女が何かをしたいと思ってアクションを起こしても、国籍によって彼女の生き方は限られてしまう。自分と何ら変わらない人間であるのにそういった待遇を受ける彼女を前にして、何もできない自分の無力感を感じた。
僕は幸いにもこうして多くの社会問題に触れることができた。しかし、ここで「いい経験」と片づけてしまっては、それらの経験のもつ意味は無くなってしまうだろう。この経験をどう次につなげていくかを考えなくてはならない。「日本に帰ったら、多くの人に自分の経験を語ってほしい。」NGOのスタッフの人が僕にそう言ってくれた。国際協力やボランティアの関心が高まりつつあるものの、多くの日本人が実際の現場の状況を知らなかったりする。「そういった人々に、事実を伝え、知ってもらうこと。」それが今の僕のすべきことである。社会的弱者の声は概して人々に届きにくいものである。今の僕にできることは、その届きにくい声を少しばかり拡声することだろう。人が人を呼び、小さな輪が大きくなって「貧困」という大きな課題に立ち向かうことに自分が少しでも貢献できたら幸せである。この経験が教えてくれたことは、こうした貧困や所得格差の問題が、感情論で片づけられる程たやすくないということだ。こうした問題の背後には、腐敗政治、貿易自由化の影響や、文化的・社会的差異などがあるからだ。最近では、国際機関の行う貧困対策のセミナーに行ったり、大学での講義を通じて、もっと客観的、多角的に貧困問題などを見る力を養う努力をしている。

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