2006/07/08
所長と同期の調査員。兼、庶務。特技はエクセルと台所の掃除。基本的にネクラ。普段はあまり目立たないが、思い立ったら何をしでかすか分からない核弾頭。
この部署を束ねる所長。物を書く時はやたらと渋い。実際は同期にいじられるわ後輩に突っ込まれるわ……それでも皆から慕われ愛されている我らが所長である。
所長の部下の一人。常に空中のある一点を見つめている。たまに挙動不審。部下同士では明るく談笑したりもする。まだまだ謎が多いが、ガリガリ君が好きということは周知の事実。
――もしかしたら、
もしかしたら、
走った方が早く着いたりして。
バスを待ってる時、停留所から大学へ向かう時、あたくしは頭の片隅にこのような疑念がとめどなく浮かんでくることを禁じえないのです。
遅刻しそうな時、馬場歩きより交通機関のほうが絶対速い……こう信じて、毎朝毎朝170円出してバスを利用します。でももし、人力のほうが速いのだとしたら……。
いえ、怖いわ。そんなこと確かめるのは。ああどなたか、あたくしのこのささやかな疑問を解き明かしてくださるのを切に願っております――
私「という実にポエミィな依頼を受け取ったんだけど、所長」
所長「うむ」
私「……え、調査しないの?」
所長「調査? どうやって?」
私「体当たり」
所長「……はぁ? それは、馬場歩きと、バス移動とを比較するってことか? そんなんバスが勝つに決まってんじゃん」
私「えーそうかなあ。私この人の言うこと結構当を得てると思うよ。馬場歩きルート、女の急ぎ足でも本キャンなら15分ちょっとじゃない? バスって待ち時間ってけっこうあるし、少し足の速い人だったらどっこいどっこいなんじゃ……」
所長「いやいやいや、いっくら足速くたって相手が公共交通機関じゃ勝負にならねえよ! 普通に考えて」
公共交通機関……こないだの学生課といい警備員といい、どうも巨大権力の前にはチキンな所長である。
私「……わかったわよ! 足速い人見つけ出してやるわよ! そんでその人にバスと競争してもらおうじゃん、所長!」
所長「え、俺が競争すんの?」
微かに声を上ずらせる所長。私は薄ら笑いを浮かべた。視界の端には、虚空を見つめてぼーっと椅子に腰掛ける哀愁の姿。
「――そうよ、そんだけ力いっぱい否定すんならお前が実証してみなさいよ。バスが一番速い交通手段って。人間は公共交通機関に勝てないってね。あと、哀愁!」
哀愁「ハイ!」
私「公共交通機関と勝負するってことだから、あんたは東西線乗ってね」
哀愁「……はあ」
所長「いいよ、わかったよ、お前の好きにすりゃいいよ。絶対人力じゃ無理だとおもうがな」
もはや呆れ口調な所長を後に、私は早速、調査の準備に乗り出した。
後れ馳せながら、私はこの事務所の調査員兼庶務の、真知子。以上の経緯から、いつも窓際な私が今回の事件を担当することとなった。命題は、人間と東西線と都バスと、どれが最も速い交通手段なのか、ということである。
しかし、重大な問題が発生した。こんなアホな実験に参加してくれるような人がなかなか見つからないのだ!
片端から当たってみるも、答えはノー。今日も元陸上インターハイ出場(競歩)の友人に断られた……。所長のにやにや笑いが目に浮かぶ。こんなところで頓挫するわけにはいかない! と、その時、調査員の一人である杏が駆けてきた。
杏「真知子さん! いい情報がありますよ!」
私「えーほんと!? 教えて教えて!」
杏ちゃんったら……つくづく使える……もとい、優秀な人材である。
杏「早稲田精神昂揚会に、めちゃめちゃ足速い人がいるらしいんです。何でも、百ハイで旗手を務めてたらしいんですよ」
百ハイとは「本庄〜早稲田100キロハイク」の略称であり、毎年昂揚会が主催する行事である。埼玉県の本庄から新宿区西早稲田までを2日がかりで踏破するという奇天烈な伝統行事だ。
これが百ハイの図
私は早速、昂揚会にコンタクトを取った。すると、なんと協力してくれるとのこと。さすが、バンカラ早稲田精神を地で行く者どもの衆である。感謝に尽くせない。これでやっと被験者が揃ったわ!
数日後、「めちゃめちゃ足の速い」という本人と会うことができた。
それが、彼。I君。
「あ、こんちは……」
見た感じでは、いかにも朴訥そうなごく普通の青年である。
遅刻しそうな時の対処法について伺うと、
「僕ですか? あー、遅刻しそうな時は必死で走りますね。こないだなんですが、馬場駅出る時にまだ停車してたバスに追い越されそうになったんですが、その地点がちょうど西早稲田交差点の辺りでした」
えー!? 西早稲田交差点っていったらバス停留所のすぐ近くではないか。
I君どんだけ速いんだ。
これは、これはもしかしたら人間の方が勝っちゃったりするのでは……!?
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6月某日、いよいよ実験調査が開始された。
スタート地点はJR高田馬場駅改札。ゴール地点は西早稲田キャンパス大隈銅像の正面。コースは、いわゆる「馬場歩き」と呼ばれるところの、早稲田通りを高田馬場から東へ進み、西早稲田キャンパスの第2西門へ至る道のりである。あと、銅像前で大隈先生にきちんとご挨拶をすることをもって、ゴールとする。

「頑張ってくるのじゃよ」
被験者の属性は以下の通り。
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I君、昂揚会の臙脂(えんじ)色の部旗を肩から纏っている。
漢のにおいがしました
うーん……こんなのが早稲田通りを疾走するのか。……シュールだ。
それをぼーっと見やる哀愁。
口開いてるってばよ
私「哀愁、準備運動とかしたら?」
哀愁「……はい、わかりました!」
えー! 腕立てって準備運動なの?
私「そういや所長は?」
哀愁「あ、所長さんならあそこに……」
いた。
…………
私「……いや、今更やりたくないとか無理ですからね」
所長「……」
あれほど余裕ぶっこいてたくせに、どうやら先行きに不安なものを感じているらしい。私は非常にわくわくしてきた。いい感じ!
哀愁が準備運動を終えたところで、3者がJR改札に並んだ。
一番右は、I君の伴走をしていただいた昂揚会の方です
この日の気温は摂氏26度、天気は晴れで、風は無かった。
午前8時46分。緊張がそれぞれの被験者の間に盈溢する。文明の利器と人間の限界との熱き競い合いが、今、始まるのだ!
「用意……スタート!!」
所長、出遅れてない?
一斉に改札の階段を駆け下り、未だ嘗て無いほど真剣に登校する男たち。彼らはそれぞれ、高田馬場駅早稲田口、バス乗り場、東西線改札へと疾風の如く消えていった。
バスはこの時間帯、ものすごい人の列。しかも並んですぐバスに乗れるわけじゃないから、ひたすら黙ってバスを待つ。
いらいらいらいら
一方東西線も、すぐに乗れるわけじゃない。何よりまず切符を買わないと。
財布財布……
出だしから足止めを食らうバス・東西線を尻目に、ぐいぐい2人を引き離す人力・I君。
もう早速部旗がずり落ちかかってます
待つこと1分少々、ようやくバスが到着! さあ、バスの猛追の開始である。
中も大変な混雑
馬場歩きの人を車窓から見下ろし、すいすいと進んでいく。
馬場歩き、ご苦労様だね!
一方哀愁は、というと、思わぬアクシデントに見舞われていた。
朝のこの時間、都心へと向かう東西線の通勤ラッシュは凄まじい。あまりの混雑に、1本電車を見送っていたのである。痛恨のタイムロス!
はよ次来い〜!!
一方こちらは快走を続ける人力I君。明治通りと早稲田通りの交差点、馬場口交差点付近まで至るが……
馬場口交差点手前約50 m地点、和民を通過
なんと! 歩行者信号は赤! 足止めを余儀なくされるI君。タイムロスもさることながら、全速力で走る人間にとって立ち止まることは何よりもキツイ。心臓に大きな負担がかかってしまうのだ。
肩で息してます
……いらいら
いらいらいらいら
この間、バスが着実に馬場口交差点に迫ります。果たしてI君、逃げ切れるか!?
バスが通るたびに生きた心地がしません……
数分後、信号が変わったと同時に脱兎の如く駆け出していくI君。老若男女を掻き分け、掻き分け、ひたすら走っていく。バスに、電車に勝つために!
遅れを取り戻さな!
朝の光を浴びながら早稲田通りをひた走るI君。いいねえ。若いねえ。
輝いてますね
やっと次の電車に乗れた哀愁は、というと
どこ見てんのよ
マヌケ面でぼーっとしてます。人間楽するとよくないですね。
その間にもI君、一人また一人と馬場歩きをする人を追い越していきます。
ちょいとごめんなさいよ!!
一方バスが、西門商店街の入り口から少し離れた松の湯前に停車。猛ダッシュする所長。
ぬおおお!
……けっこう長い。
両者追いかけているとも、追いかけられているとも分からぬ状況下、ただ、ひたすらに走ります。
商店街に入った!
キャンパスはもう目と鼻の先! 頑張って!
ってそっちは生協だよ、I君!
所長も必死で走ってます。果たして軍配はどちらに上がるやら?
さて、人力・都バスという対抗馬2人がキャンパスに迫る少し前、哀愁の乗る東西線はというと……
うっわー! 階段が見えません!
早稲田駅に到着するもののすさまじい人、人、人……走るも何もあったもんじゃない。哀愁、間に合うか!?
走れ走れ!
一方さすがに疲れたのか、確実にペースが落ちているI君。ようやく西門へたどり着いた!
さあラストスパート
この角を曲がれば大隈銅像が見えます!
やった!! 着いた!!
「ぜぇぜぇはぁはぁ………」
……で、あれ、他の人は?
あれあれ?
……いない。
……いないよ。
……つまり、
人間が最初にゴールイン!!
電車より、バスより、走った方が速かったのだ!
人間が、交通機関に勝ってしまったのだ!
さあ大きな声でご挨拶。「おはようございます!」
左から、I君、伴走の方、お出迎えの昂揚会の方です。
到着時刻は午前8時55分20秒。所要時間は9分20秒であった。
そして、遅れること1分30秒後
「うわあああああああああああああ」
あー! 所長が来た!
ズサー
「ぅゎあぁぁあぁあぃゃぁぁ」
バス利用、所長が到着。所要時間は10分50秒。はい、挨拶して。
「おぉはょぅござぃまぅぅ」
所長、完敗ね。
この人しばらく立ち上がれませんでした。
そこから更に2分弱が経過した、午前8時58分35秒
「あひゃあああああああああああああ」
哀愁も来た!つーか遅!
「大隈先生ッ
気をつけ!
おはようございます!」
「ご苦労じゃった!」
高田馬場駅から早稲田駅をわずか3分で繋ぐ東西線。しかし学生にとっての移動時間を左右するのは、必ずしも乗り物のスピードではない。都バス、あまつさえ人間に敗北を喫した。
ここに、今回の実験調査結果を報告する。
1位:人間の足 所要時間9分20秒
2位:都バス 所要時間10分50秒
3位:東西線 所要時間12分35秒
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終了後、協力してくれたI君に内観報告を求めた。
私「走る前は、どんなことを考えてましたか?」
I君「あ、何も考えていませんでした。遅刻しそうな時って大体そうじゃないですか?」
私「じゃあ、ゴールしたときは?」
I君「何も考えていませんでした」
……………………
やはり人間無心になることが重要なようである。
I君「……でも、人ごみを掻き分けたりして申し訳なかったですね。できればもうやりたいとは思いません」
と、すこし言いにくそうに語る。我先にと周囲を出し抜いて走るのは気分がいいものではないことは想像できる。でも、できればもうやりたくないってことは……
私「じゃあ、遅刻しそうになったらこれからはどうします? バスですか?」
I君「あ、いえサボります」
……………………
…………駄目じゃん。
最後に、3つの交通手段から馬場歩きルートを走ることを選択する人へ、メッセージをもらった。
「やればできます」
言った直後照れくさそうに笑い、額に光る汗を拭くI君。しかしその姿は、どんなくだらないことでも真剣に取り組み、結果として見事、勝利をその手に収めた者の存在感をまざまざと見せ付けていた。
熱き早稲田精神をありがとう、I君。
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さて。
さてさて。
…………
いやはや
あれだけ大見得切ったのにね……。
哀愁漂ってます
今回の調査結果は、真剣に馬場歩き、いや馬場走りをすれば、文明の生み出したバスや地下鉄よりも先に移動できてしまう……人間の可能性の神秘を知らしめる、実に感動的な結果となった。
みなさんももし、遅刻しそうになったら、お財布に170円がなかったら、腕に覚えがあるのなら、この究極の最短ルートを選べばいいのかもしれない。
ただ、まあ、
遅刻はしないようにね!
完
【次回予告】
毎朝大声で大隈銅像に挨拶する、ナゾの人物を追う!
※次回公開は7/15(土) お楽しみに!
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