不合格体験記 vol.10 |
2006年3月 鹿児島県立鶴丸高校卒業 同年4月 北九州予備校入学 2007年4月 早稲田大学商学部入学 赤ちゃんの頃は誰からも教わらなくてもひとりでに字を読み、周りから神童といわれ、小・中学校でも優等生としてのポジションを確立していた僕は、高校入学とともに落ちこぼれへとクラスチェンジしてしまった。かわいいマネージャーに惹かれて入ったラグビー部は、中学時代、弓道部で運動オンチだった僕にはきついし、苦痛で、ただの重荷にしか過ぎなかった。それに加え、県内でも有数の宿題量・予習量を課されるわが母校のカリュキュラムには1年の5月でついていけなくなり、気がつけば偏差値が40をきりそうになっていた。 そんな僕も気がつけば高校3年になり、大学進学という問題に本気で向き合わなきゃいけなくなった。ただ漠然と「東京の大学に行きたい」と考えていた僕は、数多くの“東京の大学”の中から上智大学を第一志望にしていた。なぜなら、本で読んだ上智大の教授の記事に感動したのと、少数指導というのがなんとなくよさそうだったからだった。それに女子の数まで多いとくれば、もう文句なしで上智だろう。とそんな風に考え、夏休みに上智のオープンキャンパスへと向かった。 しかし、憧れの四谷キャンパスで感じた上智大学の雰囲気は僕が考えていたものとは違っていた。 男が……いない。 それでよかったはずだった。それを僕は望んだはずだった。 だけど、本当はそうじゃなかった。本心ではもっと男くさい、そして活気のあるキャンパスライフを求めていたのだった。失意の中、四谷後にした僕は時間が余ったのでとりあえず早稲田を見に行くことにした。 昼休みだったのだろうか、キャンパス内では座り込んだ学生たちがワセ弁をむさぼる姿やベンチで談笑する姿、そして、なんかよくわからないけど騒いでる姿が見受けられた。 別にみんながみんなドンちゃん騒ぎをしてるわけじゃなかったのだけど、色々な姿のひとつひとつに活気が見られた。 これだ、こういうのだ、僕が求めていたのは! 僕は一気に早稲田が好きになった。 その日から僕の第一志望は早稲田になった。 とはいっても、落ちこぼれクラスに属していた僕。 得意な国語は偏差値60台をキープしていたものの、日本史は50ぐらい、一番大事な英語に至っては苦手だったので40台であった。予備校のデータブックを読み、どの教科も早稲田の合格ラインにはほど遠いことを知ってへこんだが、夏からとりあえずがんばることにした。 が、秋から冬になると、出ない結果と根っからの弱気な性格が手伝って受験勉強の途中途中で「もうだめじゃねぇか」と投げ出し、周りには言い訳ばっかりして、現実逃避をしていた。そんなんで結果がついてくる訳もなく、自信もなしに望んだ入試は散々なものだった。 上京した次の日に受けた明治大学政経学部はろくに赤本も解いたことなく望み、「明治大学の問題って難易度は早稲田と大差ないんだな」と、できなかったのになぜか客観的な視点から冷静に試験を終えた。早稲田大学法学部・政経学部にいたっては受験日の記憶がはっきりしておらず、手ごたえあったのかなかったのか、とにかくへこんでたのかテンション高かったのかまったく思い出せない。ひとつだけ覚えているのはとにかく必死に解いていたことだけだった。早稲田で唯一記憶のある教育学部はとても難しく感じ、開き直って居眠りをしたことが一番印象に残っている。東京で最後の受験になった首都大は印象が薄くて何も覚えてない。 鹿児島に帰り、地元鹿児島大学法文学部法政策学科の後期日程を受験し、面接で面接官から「あなたは法政策の申し子のような人だ」という言葉をいただき、センターで失敗していたにもかかわらず、「これはもらっただろ」と確信していた。 合否が判明していくうちに厳しい現実が明らかになった。 当然のごとく早稲田大学は全滅。 なんとなく受かるだろうなと思っていた明治、首都大も不合格。 そしてなんと、面接で「申し子」という名誉あるお言葉をいただき、周りには「受かってもいかねぇよ」とほざいていた鹿児島大学も不合格。 僕の大口を聞いていた両親もこれにはショックを受け、なぜか見栄を張るために、僕が鹿児島大学に落ちたという経歴を詐称し、その結果、親父の仕事仲間内では早稲田に入学した今でも、僕は現役時鹿児島大学に合格し、辞退したことになっている……。 一応、福岡の某私大には受かっていたが、「俺は九州に収まる人間じゃなか」とこれまたほざいて、浪人することにした。自分が弱い人間なのは分かっていたので予備校は厳しい校風の北九州予備校にした。 バックナンバーに戻る |