【ペンネーム】ちょろぎ
2006年3月 八洲学園高等学校卒業
2006年4月 早稲田予備校高田馬場校入学
2007年4月 早稲田大学教育学部入学
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浪人時代(春) ●
浪人時代(夏) ●
浪人時代(秋) ●
浪人時代(冬〜直前) ●
受験校・結果 ●
最後に
早稲田に行きたいから、早稲田にしか行きたくないから私は高田馬場にある予備校を選んだ。やる気を持続させるためだった。
「何としても勝たなければならない」。そんな想いを胸に秘め、早稲田に入りたいという希望を叶えるための一年が幕を開けた。
■浪人時代(春)
まずは生活習慣を正すことから始めた。大体6時半に起床し、0時までには就寝。規則正しいリズムによって体の調子が良くなったように感じた。
浪人生の授業は基本的に午前中のため、終わったら自習室へ行き、夜まで勉強した。帰り道、居酒屋の入り口前はサークルの新歓コンパ期間のために賑わっていた。視界に入ってくる早稲田の新入生達。横目で見ながら
「くそっ、来年自分もその中に居てやる」とそう誓った。私の中で何かが弾けた。何故なのかは分からないけれど、悔しさが胸いっぱいに込み上げてきた。その日は唇噛み締めながら単語帳を片手に家路についた。
英語は苦手意識を克服するためにまずは担当の先生を好きになることから始めた。先生と言葉を交わしたくて毎日頑張って復習をし、理解が足りない所を見つけ出していた。
英語の克服に奮闘していたが、この時期は政治・経済に逃げてしまっていたように思う。英語より政治・経済、現代文の方にウエイトを置いてしまっていた。
そして苦手な古文は,教え方がとても分かりやすい先生のおかげで苦手意識は無くなっていた(受験生の皆さん、
助動詞は大事ですよ、かなり)。
気付けば夏期講習の受付が始まっていた。
「もうそんな時期か……」とやや焦りが出始めていた。
■浪人時代(夏)
7月の終わり頃、現役時に予備校が同じだった友達と早稲田のオープンキャンパスへ行った。2月と同じように大きくそびえ立つ大隈講堂、たくさんの人が行き交う広い構内。友達には何だか恥ずかしくて「あまりテンションは上がらないな」なんて言ってしまったけれど、内心嬉しくて仕方なかったし早稲田への想いは強まっていた。食堂で昼食をとった後、私は「必勝」と書かれたえんじ色のハチマキを買い、早稲田を後にした。家に帰ってからすぐさまパンフレットを机の上に飾った。アーティストのライブに行った後みたいな感覚だった。「来年、あの賑やかな場所で私も笑っていたい」、そう思った。
早稲田への想いが強まる中、焦燥感から無理をしたことが祟り、体調を崩して1週間思うように体を動かせなくなってしまった。腹痛と熱で朦朧とする意識の中「みんなに置いていかれるわけにはいかない」という意地で気力を振り絞り、暗記に励んだ。覚えはいつもより悪いし、字を見ているのも辛かった。でも、早稲田のパンフレットを見るといくらか痛みが和らいだように感じた。「まだいける」、諦めの早い私に変化が生じていた。
体調も回復し、指に痛みを感じても勉強をした結果、成果が少しずつ見え始めてきた。問題集の正答率や解答時間は確実に良くなっていた。
■浪人時代(秋)
私が過去問を解き始めたのは9月だった。本当は夏休みからすべきだったのだが、もう少し力をつけてから解きたくて秋にした。今思えば予備校に言われていた通り、夏に力試しをすれば良かったな、と思う。ある程度力はついてきたとはいえ、過去問はまだまだ合格ラインには届かない出来だった。焦燥感が高まっていく。この時期、「何で自分はこんなに必死にやっているんだろう」と思うことが特に酷くなっていた。孤独感に襲われもした。
でも、私は一人では無かった。親が作ってくれたお弁当、励ましてくれる旧友、車内で単語カードを笑顔で拾ってくれた人達、「分からないことがあったら聞いてね」と声を掛けてくれた外国人、励ましの言葉を掛けてくれた見知らぬ早稲田OBの方、と挙げ出したらキリが無い。支えてくれている人達を一人ひとり思い出す度に涙が頬をつたった。「こんなに多くの人達の支えがあって今の自分があるんだ。感謝しなくちゃいけない。みんなの優しさを裏切りたくはない。女にだって二言はないんだ」、と思いながら携帯の待ち受けに映った大隈講堂に合格を誓った。
気を持ち直した私は英語の文章題を毎日解き続けることにし、古文を集中的に復習した。「英語、今日はもう良いや」とくじけそうになった時は携帯の待ち受けを見て自分を奮い立たせた。
■浪人時代(冬〜直前)
この時期はあっという間に過ぎた。風邪をひかないように細心の注意を払い、いつも通り電車の中でも問題集を解き続けた。新しい年が来たことを感じている暇など無かった。過去問も一通り解き終え、復習の日々だった。似たような問題が出て失点するのが嫌で、何回も復習した。
そして迎えた最初の試験は明治大学だった。私はここを滑り止めにしようと考えて受験した。絶対受かっているだろうと思い、合格発表の日にパソコンを見た私は愕然とした。番号が無かったのだ。「明日は早稲田の教育学部の試験だというのに何ということだろう、私は早稲田に受かるのだろうか」。しばらくそんな事が頭の中にこだましていて、段々涙が流れてきた。私は泣きじゃくりながら明日の早稲田の試験の準備をした。
教育学部の試験日に私は一枚のポストカードを貰った。「早稲田で迎える、春」と書かれたポストカード。そう、ここ早稲田リンクスが作成したものだった。凄く凄く嬉しくて、さっきまで抱いていた不安感が吹き飛んだ。「よし、やってやる。春にもう一度ここに来るんだ」、私はそんな想いを胸に試験に臨んだ。
2月27日。教育学部の結果発表日。「どうかどうか、番号がありますように」と神にもすがる思いで見たパソコンの画面。そこには私の受験番号が載っていた。放心状態になる私。「お母さん、あったよ、あった」というのが精一杯だった。母親と電話でも確認し、合格を確信した後、涙が溢れてきた。人生で初めて自分の学力で勝ち取った入学切符。嬉しくて嬉しくて幼い子どものように泣きじゃくった。もちろん、早稲田を目指すきっかけとなった現代文の先生にも報告をした。先生は自分のことのように喜んでくれて、私は何とも言えない達成感の中にいた。
祝福をしてくれる人達を見て、改めて多くの人達に支えられていたことを感じた。この一年で私は模試のE判定があてにならないことも学んだし、粘り強さも学んだ。そして、一番強く心に残ったのは人の温かさだった。早稲田の合格を手に入れた時、少し大人に近づけたように思う。
■受験校・結果
・明治大学政治経済学部経済学科(一般受験) 不合格
→余裕をかましすぎたのか、「絶対」という字を「絶体」にしてました。ケアレスミスは命取りです。
・早稲田大学法学部(一般受験) 不合格
→緊張感は特に感じていないのに手が震えました。
・早稲田大学教育学部教育学科生涯教育学専修(一般受験) 合格
→上記の2日はコンタクトで行きましたが、この日は浪人生活通りに眼鏡を掛けて行きました。試験教室が物凄く熱かったです。温度調節出来る服で行った方が良いですよ。
・早稲田大学政治経済学部経済学科(一般受験) 不合格
→隣の女性が物凄い速さで問題をめくり、鉛筆の音が激しかったです。彼女の策略だったのでしょうか。
・早稲田大学商学部(一般受験) 不合格
→窓際だったのですが、試験官がブラインドを目の前でいじっていてうざったかったです。小鳥がピヨッピヨ、飛行機がブォンブォンいっておりました。
・早稲田大学社会科学部(一般受験) 不合格
→隣の男性が謎でした。必ず試験時間を何分か過ぎてから来て、「くそっ」と小声で言い出す人でした。試験官に助けを求めれば良かった……。
⇒受験期に合格1つとか、何か奇跡みたいになってますね。入試は最後までよく分からないものであります。
■最後に
私が浪人時代を過ごすことになったのは勉強不足だったからですが、人間としての未熟さもかなりの割合を占めていたように思います。1年間、ドイツワールドカップを見ることもなく、ひたすら勉強の毎日でしたが、得るものが物凄く多かったように思います(浪人を奨励しているわけではないですよ)。
そして、受験は個人戦ではありません。必ず誰かに支えられています。なので、どうか感謝の気持ちを忘れず、早稲田を愛する気持ちを大切にして日々勉強に励んで下さい。
受験生の皆様、何を言われても、例え成績が悪くても最後まで諦めないで下さい。高校のレベルだって関係ありません。自分が頑張るかどうかの問題です。自分の限界を自分で決めないで下さい。
早稲田大学であなたを待っています。
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