【ペンネーム】オレンジピール
2006年3月 埼玉県私立狭山ヶ丘高校卒業
同年4月 早稲田予備校高田馬場校文科系完全攻略コース1組入学
→スーパー早稲田90文科系特別進学コース編入
2007年4月 早稲田大学教育学部社会学科社会科学専修入学
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高校一年 ●
高校二年 ●
高三(一学期) ●
高三(夏) ●
高三(冬)
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センター試験●
一般前●
一般入試結果●
三月入試
■高校一年
一年の時、勉強はほとんどしていなかった。
特別進学コースに入れたこともあって、ちょっと調子にのっていた面もあった。
バドミントン部に入ったものの夏休み前に辞め、今思い返しても毎日何をしていたのか思い出せない。
本当に何もなく、毎日だらだらと過ごしていた。
でも、周りの人達がすごく勉強が出来る人ばかりだなと焦ったのは覚えている。
中学の頃はそこそこ出来る方だったので、高校に入って、自分よりスゴイ人がたくさんいることがショックだったし、認めたくなかった。
学校の宿題も次第にやらなくなり、先生が当てる授業は答えられないのでいつも怖かった。もちろん定期テストはいつも赤点スレスレで、補習を受ける始末。
特に数学が大の苦手で、授業は嫌でたまらなかった。
勉強しないから出来なくなっていくのに、
「周りの人の頭が良すぎるんだ」とか
「自分は本気になれば出来るんだ」と理由をつけて勉強から逃げてばかり。
どこにも根拠なんかないのに、なぜか変な自信だけはあった。自意識過剰もいいとこだ。
そんな時、自分の目を覚まさせられる出来事が起こる。
……なんと二年に進級する時、総合進学コースに落とされたのだ。
特別進学コースには、模試で決められた偏差値をとらないと残ることはできない。
私の偏差値は、残るための基準とかなりの差があった。
悔しかった。
本当に。
周りの友達は私と一緒に
「こんな高い偏差値とれないよ〜」と言っていたのに、私以外のみんなは残っている。
みんなやるべきことはちゃんとやっていたのだ。
自分とみんなの差を突きつけられた瞬間だった。
この時、勉強はやらなければ出来ないものだと身をもって実感した。
■高校二年
二年になってからは文系に進んで、苦手な数学がなくなったこともあり、ちゃんと勉強に向き合うようになった。
でも一番の理由は、大きな目標が出来たからだ。
それは「特別進学コースに戻る!!」ことだった。
なんとしてでも戻りたい。
負けず嫌いな私は、落とされたという事実がただただ悔しかった。
総合進学コースでも楽しかったし、何よりもクラスのトップになれることが嬉しかった。特別進学コースではその他大勢に埋もれてしまう自分が、ここだと逆の立場でいれる。
でもやっぱり、戻りたい。
「このままじゃいけない」
自分だって、ちゃんとやれば出来ることを証明したかった。
そして高二の夏から、予備校に通いだした。
開校した当日に行き、自分ですぐ入会を決め、生徒第1号に。
大学の事なんて全く考えておらず、純粋に特別進学コースに上がるためにひたすら頑張った。
そしてその結果、基準の偏差値をクリアし、三年でまた特別進学コースに上がることになった。
本当に嬉しかった。
努力の成果をちゃんと結果として得ること。また、クラスのトップにいたことで自信をつけることが
出来た。
■高三(一学期)
特別進学コースに戻ることが出来た私は、自信をつけた。でも実際それは、井の中の蛙でしかなかった。
世の中には自分より出来る人など大勢いるのに、自分のいる場所しか見ていなかった。
甘かった。
高三の初めは、立教大学が第一希望だった。
自信はついたものの、早稲田なんて雲の上の存在だと思っていた。
選択肢にさえ入っていなかった。
この頃は計画表を作るものの、ほとんど実行していなかった。
もっとしっかり勉強をしていれば良かったと、後になってから何度も後悔した。
■高三(夏)
夏は毎日塾に通うようになった。
それは、予備校の先生に連れて行ってもらった大学に、入りたいと思ったからだ。
その大学は、早稲田大学だった。
本当に、一目惚れだった。
青空に栄える大隈講堂、楽しそうな学生、緑の多いキャンパスに、たくさんの可能性。
私を夢中にさせるすべてがそろっていた。
初めて早稲田に出会った日、どうしてもここに通いたいと思った。
勝手に、運命を感じていた。
だから、頑張ろうと思った。
この日に撮った大隈講堂の写真は、合格するまでずっと携帯の待ち受けにしていた。
夏休み、私は頑張った。でも私の勉強は、今考えると非常に効率が悪かった。
マーカーを引いて覚えたつもりになったり、たくさんの問題集を買い込んで満足するが、結局手をつけなかったり……。
予備校のテキストはこなしていたものの、問題集は一冊も終わらせられなかった。
最悪なのは、私は計画を立てるのに時間をかけすぎている所だ。
毎日1時間位、計画表に時間を注いでいた。何故あんなことをしていたのだろう。
当然ながら、夏休み明けのテストでは期待していたような結果は出なかった。
「このままで大丈夫なんだろうか」という不安を持ちつつ、この頃の私はまだ楽観的に「なんとかなるだろう」と考えていた。甘い甘い……。
■高三(冬)
十二月。
受験生としては、猛勉強の時期だ。
私も他の受験生同様、目の色を変えて勉強するようになった。
でも、ちらほらと赤本をやる人がいるのを見ながら、「まだ私が解くのは早すぎる」と理由をつけて手をつけていなかった。
自分と大学との差を、知りたくなかったのかもしれない。
これは間違いだった。
もっと早く見るべきだったと思う。
後々、この頃から解かなかったことを後悔することになる。
では赤本を解かずに何をしていたかというと、苦手だった英語に力を入れていた。
「早稲田へ行くには英語を何とかしなければいけない」ということがやっと私にもわかり、廊下やトイレ、部屋の壁の至る所に単語や文法を書いた紙を貼り、毎日眺めるようにしたりして、苦手克服を目指した。
毎日何時間も塾にこもって勉強し続けたかいもあって、やっと成績が上がるようになり、勉強を少しずつだが楽しいと感じるようになった。
日本史もだんだんと流れや繋がりが見えてくるようになった。
願書などを書くようになり、受験の足音がだんだん近づいてきた。
夏は「早稲田はチャレンジとして受けなさい」
といっていた予備校の担任も、この頃になると
「この調子のままいけば合格圏内に入るかもしれない」
と励ましてくれるようになった。
自分の頑張りが点数に表れるようになると本当に嬉しい。
このまま突っ走って、早稲田まで飛び込もうと、猛勉強をしていた。
一月一日。
普通の受験生なら、この日ぐらいは家族とゆっくり過ごしたりするのだろうか。
私は違った。
朝早くに、電話が鳴った。
お母さんが出て、青ざめた顔で言った。
「おじいちゃんが亡くなった」
「びっくり」なんて言葉じゃ、表現しきれない。
身近な人が亡くなったのは、初めてだった。
よく状況が飲み込めないまま荷物を鞄に詰め、すぐに母の実家の宮崎へ行く準備を始めた。
この時向こうで勉強するつもりでいくつか参考書を詰め込んだが、結局一度も開けなかった。
一週間ほどで帰宅し、遅れを取り戻すために毎日塾に通うようになったが、読めるようになったと思っていた英語がまた出来なくなった。
得意だったはずの国語も読めなくなり、軽いスランプに陥ってしまった。
■センター試験
センターで合格することはほとんど考えておらず、受けたのも一校のみだった。
練習のつもりで受けたが、緊張で手が震えたのを覚えている。
英語6割 国語9割(現代文のみ) 日本史6割
●東洋大学社会科学部
不合格
■一般前
センターが終わってから、赤本を解き始めた。
最悪のスタートだった。
ただでさえたくさん受けるのだから、やらなくてはいけない量もハンパじゃない。
とにかく毎日赤本を解き続けた。
しかし。
ほとんど赤本に手をつけずに受けることになった学校もあった。
私の受験結果は
最低だった。
予想もしていない結果に、なってしまった。
■一般入試結果
●東京女子大学現代文化学科コミュニケーション学科。不合格
英語で隣の席の子が開始30分後に寝始め焦る。その後「もう退出したい」とか言い出してさらに焦
る。周りが気になるなんて、集中できていない証拠だ。
●成蹊大学文学部現代社会学科。補欠不合格
日本史の正誤問題で、かなり時間を食ってしまった。英語もゆっくり読んでいたら時間が足りなくな
りそうになり焦る。
●明治大学情報コミュニケーション学部情報コミュニケーション学科。不合格
これはもしや……?? と思ったが、だめだった。多分英語が……。
●立教大学社会学部現代文化学科。不合格
日本史の書き取りが出来なかった。答えがわかっていても、日本史は漢字が思い出せなくて点を取れ
ないことがあって悔しい。
●早稲田大学人間科学部人間環境学科。不合格
英語の前置詞と正誤問題で、出足をくじかれる。わからないものばかりだった。
●早稲田大学社会科学部。不合格
日本史がやはり難しかった。マークの神様に祈ったがだめだった。
●早稲田大学教育学部社会学科社会科学専修。不合格
第一希望。英語ですでに手応えなし。国語と日本史で何とかしようとあがいたが、無駄だった。この日の帰りの電車で、浪人の時に通うことになる早稲田予備校の張り紙を見る。
「早稲田に強い!!」と書いてあるのが印象的だった。
のちに、この日見た事がきっかけでこの予備校に入ることになる。
なんと全落ち。
自分が浪人するなんて考えたこともなかったし、考えたくもなかった。
結果を知って、愕然とした。
早稲田の合格発表の時、声を押し殺して泣いた。
ほとんど手をつけていない過去問を見たら、なおさら泣けてきた。
こんな結果で終わって良いのだろうか。
まだ終わらせちゃいけないんじゃないだろうか。
口では
「こんなにやったのに」
と言いながらも、
私の限界はこんなんじゃない! もっと出来る!!
そう思っていた。
そう思いたかった。
ここでこの結果を自分の限界だと決めたら、もう私は上には行けないような気がした。
何日も部屋に引きこもって考えた。
これからどうするかを。
■三月入試
●日本大学商学部。合格
私の心配をした親が、三月入試を勧めてくれた。
両親には本当に迷惑をかけてしまった。
私が赤本が欲しいというと、嫌な顔一つせずにすぐ買ってきてくれたり、一緒にスケジュールを立てて表にしてくれたり、家から一つ隣の駅にある私が通っている予備校まで温かいご飯を届けてくれたりした。
ここまでしてくれた両親の期待に答えたいと思ったが、私には出来なかった。
早稲田に落ちた今、他の大学に行くなんて考えられなかったけど、とりあえず受けた。
受かって嬉しかったけど、私はここに通う自分が想像できなかった。
早稲田しか行きたくない。でも浪人なんか私にできるか不安だ……。
どっちつかずの気持ちを抱えたまま、卒業式に出た。クラスでまだ進路が決まっていない女子は、私を入れて二人だけだった。
友達には、「受かったところに行けばいいじゃん。慣れれば楽しいよ」
と入学ばかり勧められたが、私はうなずくことが出来なかった。
むしろ、早稲田に行きたいと言っていた子達が、他の大学に進むことが不思議でならなかった。
どうして諦められるんだろう。
どうやって諦めたんだろう。
卒業式の後、一人で職員室に行った。
普段はそんなに行かないのだが、最後くらい挨拶をしとこうと思ってふらりと寄った。
するとそこで、一年の時理科を担当していた先生に会って、話をした。
二年ぶり位に話すのに、何故か思っていたことを全て吐き出してしまった。
これからどうすればいいのかわからない。
早稲田に行きたい。
でも浪人して受かるのか不安だし、耐えられるかわからない。
先生は頷きながら、一通り私の話を聞いた後、自分の話をしだした。
「先生もな、浪人していたんだ。
どうしても入りたい大学があったから、目標を見失わずに一年間頑張ることが出来たし、とても充実した一年だった。
色々あったけど、あの一年がなかったら、今の自分はないよ。
お前の早稲田を好きって気持ちは簡単に諦められるようなものなのか?
諦められないからここまで悩んでるんだろ?
後悔しないためにも、先生はお前は浪人するべきだと思うぞ。
頑張ってみろよ」
頑張ってみろよ。
そういわれた時、とても嬉しかった。
周りは
「女の子なんだから良い大学なんか行かなくてもいいじゃない」
「受かっただけありがたいと思いなよ」
と、背中を押してくれるような人はいなかった。
私はこの言葉が欲しかったのだ。
あと一年、頑張ろうと決めた瞬間だった。
私は早稲田を目指して、浪人を決意した。
【合格体験記(10/20更新予定)に続く】
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